空蝉の神童(サンプル版)


一 救いの涙雨

◆◇◇◇◆


 雲は厚くたれ込め、世界は薄暗い。大きくはない、取り立てて難しいというわけでもない戦場。俺たちが今立つそこは今にも雷鳴がと轟きそうな曇り具合だった。俺にできる限りの策を尽くし、万全を期した。青樺の先見という警告もなく、過信はしないまでも安堵してはいた。不安要素といったら、この空くらい。天気は人の力ではどうこうすることもできない、不確定要素だった。
だが、その安堵は別動の旺珂と青樺に任せた分隊……奇襲の形になるように、陳軍本陣の向こう側に布陣しているはずだった……からの知らせで、吹き飛んだ。いわば囮の、偽りの本陣で俺は届いた報に顔色をなくした。何事かとこちらに駆け寄った元堅もまた、信じられないという顔でその報告を聞いていた。
「……布陣前に陳軍の部隊と接敵……だって……?」
「はい……燕大将、並びに陶大将の行方も、判りません! 至急、増援か指示をお願いしますっ!」
 それだけを伝えると、力尽きたようにその仲間は気を失った。幸いひどい怪我はなかったが……無数に矢の雨が降り注ぐ、そんな状況だと彼は言った。目に見えて敵軍の士気が上がっていたことは、気にかかっていたが。口の中に、鉄の味を感じた。
「旺珂と、青樺が行方知れず……か」
 最悪の事態を頭に置くのは、俺の役だった。事態を疑い、最悪を考えそして被害を押さえる。青軍と名乗り、今は人員も多くなっているが。真実戦える者はその半数ほどだ。残りの大多数は弓を引くことも、剣を正しく振ることもできない農兵。それでも彼らは農具と扱いの似た武器を使い、虐げられた者の怒りでそれを振るう。一人減れば、一人分の力が減る。人的な被害は、死活問題というのが実情だ。見栄やはったりなど、何の役にも立たない現実。
「……撤退だ。急ぎ、町で撤退する」
 決断は早い。危ないと見れば、素早く逃げる。この一戦の勝利に固執して、挽回が困難なほどの打撃を受けるのはそれこそ本末転倒だ。
この戦に勝った者が勝つのではない。最後に、宮城に生きて立っていた者が勝者なのだ。
「あぁ、それしかねぇな……」
 撤退に否はない。すぐに返った返事がそう告げていた。当たり前だ元堅は俺以上に、味方を大切にする男なのだから。だが、歯切れが悪いのはその連絡が行ききるか、そもそもどれだけが逃げ切れるかが判らないためだ。そして、行方が知れなくなったという青樺と旺珂。気がかりでないと、どうしていえるだろう。城を手に入れる前、本当に初期の青軍を形作った、掛け替えのない男たちだ。
 戦場に絶対はない。どんなに強くても石一つ、ぬかるみ一つに足を取られ死ぬことはままあること。ましてここ数ヶ月の旺珂は、危なっかしさがあった。そして、青樺も。……最近の青樺は、ずっと気落ちしているように見えていた。
「撤退だ、急げ!! いいか、バラバラにでも町へ逃げろ。どの町でもいい、俺らの側の町へ逃げ込め!」
「は、はい!!」 
 元堅の指示に、あちこちから声が上がる。バラバラと本陣から駆け出す仲間達。兼ねてから決めてあった、『逃げろ』の合図が曇天を切り裂き、一瞬の光を走らせた。逃げれば、その分追われるだろう。だからこそ散り散りに逃げなくてはならない。はじめから町に飛び込むのでなくてもいい。山や橋の下、村の裏手、森の中。人目を避け隠れ、こちらの陣営の町へたどり着けばいいのだ。それは前々から、皆に強く言い含めてあること。
 
 逃げる仲間にかかる追っ手を分散するため、元堅が単騎戦場へ駈けだしていく。顔が知られているため、奴はいい的だ。けれど同時に、並の的ではない。彼はよく動き、巧みに馬を駆る。そして、何人もの敵をその手にした太刀で屠っていくだろう。
「元堅の兄貴は?!」
 逃げる仲間からの問いの声。剣戟の音、火計の轟音に負けるなと張り上げられる。
「俺はしんがりだっいいから、速く逃げろっ」
 ただ的に、囮になりに行ったわけではない。それを見送り、俺は自分の仕事に取りかかった。前線となった別働隊からこちらへ戻ってくる者から話を聞き、情報を集める。この付近だけでも、どれだけの仲間が逃げられたか。……青樺や旺珂、そして旺珂の配下達の姿を見た者が居ないか、と。
 ぽつり。
 頬に冷たい物が当たり、空を見上げる。重く垂れ込めた空から、雨が落ちてきていた。ただ、それはただの雨ではない。戦場の、火計の後に降る煙や埃混じりの黒い汚れた雨だ。間違っても飲用にすることはできない水。農民の出自の仲間が雨に気づいてため息をつく。また、土地が荒れる。そう顔に書いてあった。どんなに待ち望んだ雨でも、この水を濾し綺麗な恵に変えていく為に土地が汚れ疲れてしまう。油と人の燃える煙は、自然ではない。自然にある物を人の手が作り替えて使う、結果痩せた土地はさらに疲れていくのだろう。
(青樺が、複雑な顔をするな)
 農民のでの、筆頭とも言える男を思う。彼は戦の合間に、少しずつ簡単な物事を学んでいた。どうして土地が痩せたのか、どうして大地の恵みが減ったのか。それが気になると拙いながら学んでいた。……そうまで考え、その考えを散らすように首を振る。いけない。『いた』なんて、過去形で考えてしまうのは不吉にすぎる。

 降り始めた雨は、あっという間に辺りを覆う。まるで視界を遮る薄絹の緞帳を幾重にもおろしたかのようだ。弓が主力らしい敵陣がざわざわと落ち着かなくなる。視界が悪く、狙いがつけにくいと言うところだろうか。撤退するこちらを追うか、それとも自陣も撤退するか。この機を逃す手はない、雨が敵の目を奪ってくれる。すぐに逃げるのが難しい者も、死体のふりをしていれば急場をしのげるだろう。体力を奪われることは怖いが、幸い夏だ。死には直結しない。撤退の指示は速やかに伝わったらしく、戦場に青軍の旗は見えなくなっていた。
 馬の蹄の音が迫り、元堅が戻ってくる。馬上の姿はさすがというべきか、怪我一つ負っていないように見えた。それでも運動の激しさを物語るように、体から湯気がでている。
「貴沙烙。とりあえず、ほとんど逃げたようだぜ」
 ……生きている奴は。元堅が言わなかった言葉が、聞こえた気がしていた。予想外、予定外の損失だ。戦場にはどんなに万全を喫しても、絶対はない。判っていたはずのそれが、身にしみた。
「青樺や旺珂、旺珂の部下達の姿は、見たか?」
「……俺の目には、見えなかった」 
 その返答に、ギリと噛みしめた唇から再び血の味が滲む。行方が判らない青樺と旺珂、見えない旺珂の部下達の姿。上がっている敵軍の士気。そのすべての情報から最悪の結論を導こうとする頭に、叫びたい気分にさえなった。旺珂は黒衣黒髪、この漆黒とは言わずとも暗い中ならば、紛れてしまったのだ。そう思いこみたいというのに。
 戦場での行方不明は、そのまま生死不明のことだ。
「元堅。……俺たちも、撤退しよう」
 苦い声が、喉に絡まった。敵軍もこの戦果は予想外だったのだろう。欲張って雨の中深追いすれば、思わぬ損失をかえって得かねない。そんな判断だろうか、撤退を始めている。意外なほど統制がとれているのは、指揮官が大物だった、ということだろうか。とはいえ、この雨がやんだら踵を返し攻めてくるかも知れない。もう雨はずいぶんと降って、まだこの時になってもこの場に残り続けている仲間達を(当然俺や元堅も)びしょ濡れに濡らしている。雨が、空の流す涙だ、というのなら。何をそんなに悲しんでいるのか。
「…………あ、ああ……」
 元堅も、判ってはいる。いや、俺などよりよほどはっきりと判っているのだろう。この状況下の行方不明が、生死不明と同意語だということ。そして戦場のそれは確認がとれていないだけで、『死』を示す物だ、とも。

――諦めなくては、いけないのだ。青樺も、旺珂も。信じたい思いが在ろうと、その生存を諦めなくてはならない場所に、きていた。

 それでも、縫い止められたように本陣から動けないで居た。俺も元堅も、残った仲間達も。前線になってしまった別働隊の生存を、信じたい思いでその場に縫い止められていたのだろう。嫌な沈黙のなか、雨の音だけが聞こえていた。

パシャン

 そんな雨の音だけが聞こえる中、撤退の準備をのろのろと始めたとき。その水音は、やけにはっきりと耳に届いた。水たまりを、踏みしめる音だ。雨の音より強く、雨の音を退けているようにはっきりと。その音は、聞こえた。パシャン、パシャン。それは足音のようだった、一歩一歩近づいてくる足音。水たまりをよけることをせず、真っ直ぐ進んでくるような足音。
 何人かが、息を飲んだ音がした。作業のために、その音を背で聞いていた俺も、気になって振り返る。その場にある、奇妙に張りつめた沈黙。さっきまでの重苦しさとはまた違う、その空気。
「……っ!」
 
 雨にずっと降られてきたのだろう。柔らかな色の髪は濡れて張り付き、一回り彼を小さく見せていた。うつむいているせいもあり、表情は見えない。お仕着せの物とよく似た、両肩に装甲がついた鎧。重苦しく水を吸った衣が、鎧の下で腕や足にまとわりついていた。
 声をかけたら、消えてしまうのではないか。触れたら、消えてしまうのではないか。生存を諦めていた彼の姿に、声が喉に張り付いてしまっていた。
「青樺……っ」
 喜色に浮いた元堅の声が、その金縛りのような緊張を散らす。将として生きている男なだけに、奴の声は大きくよく通った。生きて、いてくれた。その思いは俺もまた同じ。だが、青樺が腕に何かを抱え低眼のに気づき、いぶかしげになり。それがいったい誰かに気づいて、力を全く失ってしまった。
 元々、色の白い男だった。好む色彩が無彩色であったこともあり、また髪も眼も黒と色彩を感じさせない男だった。愛用の甲冑もまた黒く、戦場で返り血を浴びている様はさらに白と黒の二色に見えていた。だが。力無く青樺の腕に抱えられた姿。ぶらぶらと揺れる、血の気のない白い腕。……とても、生きている物の肌色ではない、その色。俺の中に、その光景がひどく冷たい水のように、染みこんでくる。何故、こんなに冷えるのか。今は夏の盛りのはず、いくら雨に長く打たれたからといっても、何故。 
「旺、珂……」
 冗談だろう? そう問いたいのが判る、元堅の声だった。
「……青樺、旺珂は」
 問うた俺の声も、苦い。聞かなくても、確認しなくても。事実は明白に、目の前にあった。それでも、聞いたのは。……否定の言葉を、求めてだ。気を失っているだけだ、と。そういう答えが、ほしいだけだった。

 だが、現実はそんなに、甘くはない。
  
「死んだ」
 ぽつり、と青樺の唇から、そうこぼれ落ちた。遠く、雷鳴がなり始める。雨は、当分やみそうになかった。


全体図は個人誌「うつせみ」にてお楽しみいただけたら幸いです。
こちらはメインの中篇「空蝉の神童」の冒頭、一小節目です。
長い話なので、10ページ分ほどになりますがさらしてみました。
他に「隠されたひとつの、」「今は届かぬ悔恨」「遺された言葉」
というコレに属する短編が収録されています。
サイと再録は「どうしてもほしい」と「その言葉が思考を奪う」の二編。

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